埼玉県深谷市に「深谷シネマ」という映画館がある。
元々は「七ツ梅酒造」という古い酒蔵だった跡地を映画館に改装し、2010年から地元のNPOが運営している埼玉県内では貴重なミニシアターだ。
上映施設自体は新しいが、それを取り巻く周囲には酒蔵の名残をとどめたレンガ造りの建造物が残っており、レトロな雰囲気が漂っている。
コアな映画ファンであればご存じの方も多いかもしれない。
だいぶご無沙汰していたが、ここ最近は好みの作品があるときに少しづつ訪れるようになっている。
今回は、『落語の業』というドキュメンタリー作品を観てきたのでその感想を。
快楽亭ブラックとは何者か?
快楽亭ブラックは故立川談志の弟子であり、現在73歳の落語家だ。しかも過去に何度か破門もされている。「しくじった」というやつですね。
「落語とは、人間の業の肯定である」
立川談志が放った名言。
「業(ごう)」とは、飲酒、博打、怠け、嫉妬など、理屈では分かっていてもついやってしまう、人間らしい愚かさのこと。
落語は、そうした「業」に溺れるような人物を「ダメな奴だ」と切り捨てるのではなく、そんな連中が生きている世界を人間の真髄として描き出す演芸でもある、と談志は言う。
そして、数いる談志の弟子の中でもその言葉を体現するかのように地で生きている落語家が快楽亭ブラックだ。
放送禁止芸人のひとり
ブラック氏の演じる落語そのものがタブー(下ネタ、政治ネタ、博打ネタ、裏社会ネタ)満載なので、マスメディアへの出演はほとんどない。
だから、落語に興味がなければ彼のことなど知らないだろう。
20代から寄席やホール落語に通い始め、落語鑑賞歴だけはムダに長いので存在は知っていたが、今までにブラック氏の高座を観る機会はなかった。『キワモノ』─── つまり、近寄り難かったのである。
肝心の芸を先に観ないで、ドキュメンタリーで彼のことを知るのは本末転倒だが、外堀から埋めるような気持ちで席に腰を下ろした。
映画「落語の業」のみどころ
前半は、米兵と日本人の間に生まれ、幼少期に受けた差別から逃れるために映画館の暗闇に救いを見出した原体験から、落語家としての現在に至るまでが語られる。
ブラック氏のコアなファンはどう映ったのだろう。そうでない僕にとっては、淡々とした構成に少し退屈を覚えた。
しかし、これはその後に展開される波乱なストーリーの前の静けさだったのだ。
破滅的な私生活と「事件」の数々
映画では、芸を磨くための研鑽を怠らない一方で、借金問題、競馬への没頭、さらには弟子の交際相手から名誉毀損で訴えられるといった、現代のコンプライアンスとは対極にある「事件」の数々が赤裸々に描かれる。
家賃滞納により裁判所の強制執行が迫る演芸場で、ギリギリまで高座を務める姿など、壮絶かつ滑稽な「芸人のリアル」がカメラに収められていた。
強制執行官を観客が拍手で出迎え、それを現場中継として映画に取り込むなどは爆笑ものであった。
あんな事がよく許されたものだと思う。
「粋」を貫く生き様
身内の不祥事や裁判沙汰さえも「ネタ」に変え、観客を笑わせようとするブラック氏の姿が素敵だ。
高座名を「被告福田」に変更した上で裁判所前までをチンドン屋風に行進するなどは「すべての出来事を笑い飛ばす了見」に満ち溢れていた。
現代社会は息苦しいのだが、落語草創期の頃はこういうことを「粋」と感じていたのではないだろうかとふと思ったりした。
落語家には「伝統型」と「破滅型」の2つの道がある
落語家の形態を大きく括ると、ひとつにはストーリーを中心とした「噺」そのものを演じる、伝統を受け継ぐものとしての、いわゆる正統派といわれるわかりやすいスタイルがある。
現在の落語家のほとんどはこの形態が多い。
一方で、生活それ自体が「業」を体現している落語家たちが稀に存在する。一般の常識では理解し難いような暮らしぶり。破滅型と呼ばれる人たちだ。
昭和初期頃までに活躍した名人たちには、こういう人たちも少なからずいたらしい。(実際にその時代を生きていないので伝聞でしかわからないのだが)
例えば、古今亭志ん生や先代の林家正蔵などがそうなのではないか。
現代では川柳川柳、三遊亭円丈などがこれに近いが、快楽亭ブラックの破滅型スタイルはその比ではないことこの映画を観てわかったのだ。「生まれながらの」といっていい。
その意味では、完全に師匠談志の理想を超えた存在になっているのだ。


